ナイアガラとAMO

 大瀧詠一師匠が亡くなって1ヶ月半が過ぎました。しばらくは感情的になっていましたが、ようやく少し冷静に考えることができるようになってきました。ここで自分の中の覚書として、AMOのプロデューサーという立場でナイアガラとの関係を述べたいと思います。かなり、自己満足的な文章になると思いますがご了承ください。

 いまさらながら痛感したのは、師匠は私のあらゆる面での師匠だということです。音楽性はもちろん、ものの考え方、ユーモア精神、話し方まで全て影響受けました。

 その中で音楽性については、『ロンバケ』なんかより、私にとって重要なのはノベルティタイプとメロディータイプという両刀で勝負するそのスタイルです。特にノベルティタイプについては私はもっと低俗なナンセンスタイプを作り続けました。音頭シリーズも師匠の影響です。そしてポップス研究家としての師匠も重要です。自分が大好きなクレイジーキャッツも小林旭もビートルズもビーチボーイズもエルヴィスもフォーシーズンズもフィルスペクターもすべて師匠はその研究において第1人者だったのです。東京ビートルズもトニー谷も橋幸夫もすべて師匠から教えてもらったといっても過言ではありません。今思うに師匠はビートルズアメリカ上陸の1964年までの英米そして日本のポップスをその研究対象としていたのです。それは、ビートルズの凄さをリアルタイムで経験した上で、ビートルズがすべてを作ったかのように言われてしまうことへの批判でした。偉大なビートルズは1日にしてならず、つまりビートルズが産まれた背景を探ろうとしたのです。それはビートルズの前にスペクターがいてその前にエルヴィスがいて、またその周りにも(今ではオールディーズと一括りにされていますが)ビルヘイリー以後沢山のパイオニアがいたということです。日本でもビートルズの前にみんな橋幸夫を聴いていただろ?ロカビリー3人男を聴いていただろ?クレイジーキャッツ聴いていただろ?ってことじゃないかと思うのです。それだけではなく、例えば日本のポップス史を語るとき、通常はリンゴの唄から始まりますが、師匠の場合、戊辰戦争の官軍のトンヤレ節から始まるのです!そこから始まるとう意識、これです。分母分子論、ポップス不動説といわれる洋楽と邦楽の関係性を師匠は独自の理論で説いていますが、こういうとこまで考えて音楽作っている人は他にいません。音楽も歴史でみるのが好きな私は完全にやられました。ポップスを歴史的な流れの中で捉える考え方は、私が求めていたものであり、強烈に影響を受けました。

 音楽だけでなく、ものの考え方にしても、師匠は物事の関係性を最重視していました。これとこれが出会ってこうなり、それがまた融合して次の流れを生むという仏教でいう「因縁」のようなものです。だから師匠の知識は音楽だけでなく、落語や野球などあらゆる娯楽、さらには自身の人生をも物事の関係性において説明していました。ある意味、結果論や後付け理論のように思えることも師匠の論理を聴くとそうなるべくしてなったと妙に納得してしまうのです。だから私も音楽や生き方において縁や流れを重視しています。これは1度しかない人生を豊かに生きるため大事なことだと今でも信じています。

 このようにあらゆることを影響受けましたが、師匠が亡くなってやっとわかったことは、「AMOはナイアガラのパロディ」だということです。つまり東京に対する福生と同様、広島市に対して安芸高田市で、大衆に支持されない趣味性の強い音楽を、日本のポップス史を踏まえた上で作るという姿勢です。超ローカルで素人版のナイアガラってとこですね。そもそもパロディ精神というものがナイアガラ精神の根幹であり、そのナイアガラのパロディをすることがAMOなりのナイアガラ精神の継承だと考えています!

 細かいこと言えば、AMOのロゴもナイアガラのロゴをモチーフにしています。また、安芸門徒鉄次を始め、唯野城人、安芸田高市などの担当毎に変名を使うのも師匠の影響です。この極め付けが、師匠のファーストで松本隆が江戸門弾鉄と名乗っていることから、こっちは「安芸門徒」(浄土真宗)だと!で、当時師匠のそばにいたエンジニア吉野金次、ココナッツバンクの伊藤銀次にあやかって、師匠のエンジニア名が笛吹銅次。で、わたしは金銀銅のメダルにも遠く及ばないので「哲治」を「鉄次」としたわけです。どうですか、この偶然にしてはあまりにできすぎた命名!もはや運命ですよね、これは。なんてことはどうでもいいのですが、そんな風に様々なことを影響されました。

 で、今回AMOでアルバムを作ることになりました。当初のナイアガラ構想はシュガーベイブとココナッツバンクと大瀧詠一というラインナップでしたが、すぐに崩壊してしまいました。今AMOは何かの縁で何人ものいろんな才能が集まっています。まさにナイアガラサウンドのような幅の広さ。しかしこれもいつまで続くかわかりません。だから今の瞬間にAMOの理想形を形にしておきたいのです。しかし、これも師匠が亡くなる前にアルバム制作しようという流れになってて、何か勝手に運命感じてます。構想したのが『ナイアガラトライアングル』と『レッツ音頭アゲン』そして『多羅尾伴内楽団』を混ぜ合わせたようなアルバムです。そして師匠への追悼、ナイアガラへリスペクト、オマージュ、パロディの全てをこめたAMOの回答として「AMO音頭」という曲を作りました。追悼とかいいながら、実際はほんと何でもない唄です。この意味を分かる人はいないかもしれません。でも、この曲、そして制作中のアルバムは秋本音楽事務所15年目の回答です。

 そして、今年2014年はビートルズがアメリカに上陸した1964年から奇しくもちょうど50年ですねー。師匠にはとても近づけませんが、その意思を勝手に受け継ぎ、とにかく秋本音楽事務所をいう無名の船を自分なりに進めてみます。師匠が亡くなってことより、師匠に出会えたことを感謝しつつ、ここらで自己満足以外の何物でもない長文に筆を置きます。

 

 

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